燃えた土方歳三の生涯 多摩から京都-鳥羽・伏見-会津-函館へ
土方歳三は、天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に多摩の豪農土方家の10人兄弟の末っ子で生まれました。
少年期の歳三は、「バラガキ」と呼ばれる乱暴な少年だったようです。
生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹があります。
歳三は14歳〜24歳の10年間程は、江戸上野の呉服店などに奉公に上がっていました。
その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しながら、各地の剣術道場で他流試合を重ね修行を積んいきます。
歳三の姉・のぶの夫・佐藤彦五郎は、井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていました。
歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたといわれています。
そんな縁から彦五郎は試衛館道場の近藤勇と義兄弟の契りを結び、天然理心流を支援しました。
歳三はその道場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門します。
文久元年(1861年)、近藤が天然理心流宗家4代目を継承することになります。
この頃すでに道場には、のちの新選組の中核をなすメンバーが顔を連ねていて、門弟として土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一など居たと云われています。
新選組
文久3年(1863年)2月5日、清河八郎の仲立ちにより、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組が江戸で結成され、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助等らとともに、江戸の試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも加わって、京都へ向かいます。
清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功、攘夷決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退します。
このあと、京都に残った壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになります。
文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組と名を改め再出発します。
芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭局長となります。
その後、悪行理由に新見錦が切腹、芹沢鴨などは歳三らが暗殺することに。
9月16日(あるいは18日)、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開きますが、芹沢は平山五郎、平間重助、歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催します。
その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っていて、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと一緒に床へ。
大雨が降る深夜、突然、歳三数人が芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害、芹沢に斬りつけた。
驚いた芹沢は飛び起きたが刀は取れず、真っ裸のまま、つまづいて転び、そこを土方らがよってたかってずたずたに斬りつけました。
平山の死体は胴体と首が離れていたそうです。
芹沢と一緒に寝ていたお梅も首を切られ惨殺されました。
別室にいた平間は逃亡。
暗殺者は土方歳三・沖田総司・藤堂平助・御倉伊勢武らとも、土方・沖田・山南・原田らともいわれています。
この事件により、とうとう近藤が局長となり、新撰組の権力を握ります。
歳三は副長となり、近藤の右腕として京都の治安維持にあたりますが、実際の指揮命令は副長の歳三から発されました。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の折、歳三は丹虎(四国屋)方面を探索したが誰もいず、すぐさま池田屋の応援に駆けると、池田屋の周りを固め、会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れずに、新選組の手柄としました。
立場の弱かった新選組は、この池田屋事件により、天下に新選組の勇名がとどろかせます。
歳三は、新選組内部では規律を遵守させ、破った隊士や脱走者に対してはたとえ幹部であろうと斬殺、切腹を命じ、鬼の副長と呼ばれ隊士から恐れられていました。
新選組隊士の死亡原因第1位は切腹といわれています。
その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は歳三1人になるが、隊に居場所がなくなった山南が脱走して切腹させられます。
隊の規律を守るために河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らも切腹あるいは斬殺。
新選組が駐屯していた八木邸の新選組の剣術稽古では、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったらしく、歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していたといいます。
行商中に学んだ多種多様の各流派のクセは取れませんが、路上での実戦では滅法強かったようで、斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり、足のスネ斬り(柳剛流)等、剣術修行の型にとらわれずに戦っていたようです。
天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していませんが、常に最前線で戦い、多数の修羅場を体験しながらも剣戟で斬殺されてはいないことからも、剣術の実力は相当なものだったようです。
慶応3年(1867年)6月、近藤は幕臣に取り立てられます。
しかし同年10月14日、徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還し、幕府は事実上崩壊します。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発。
歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦いますが、洋式軍備の新政府軍の砲撃、銃撃の前に敗北します。
戊辰戦争
その後、流山で再起を図り、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が投降。
このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたともいわれています。
歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願しますが実現ならず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場で斬首されます。
4月11日に江戸開城を機に江戸を脱出。
宇都宮城を陥落させ、その際に足を負傷し、会津で約3ヶ月間の療養生活を送ります。
この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われています。
全快して会津の防戦に尽力しますが苦戦を強いられ、仙台へ向かうことを決めます。
歳三は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかったようで、城下に残る山口達と、仙台へ向かう天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂します。
歳三は、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流しますが、間もなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、次々と新政府軍に降伏してしまいます。
歳三は、新選組生き残り隊士を連れ、榎本らと共に10月12日蝦夷地に渡ります。
箱館戦争とその最期
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かいます。
新選組は大鳥圭介総督の下で活動し、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていました。
箱館・五稜郭を占領後、歳三は松前城(福山城)を陥落させます。
この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かいますが、暴風雨に遭い座礁。
江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守る榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っています。
江差を占領した歳三は、松前城へ戻り、そして五稜郭へ凱旋。
その後、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねることになります。
明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。
歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦するも、戦いの合間に部下達に自ら酒を振舞って廻り、その折「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言っていたといいます。
土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。
しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還します。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。
その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬します。
側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたといいます。
また、降伏に頑強に反対する土方を味方の手によって暗殺されたとする説もありますが、蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのは歳三ひとりだけでした。
歳三の墓所は多数ありますが、遺体の場所は特定されていません。
享年35歳。
榎本軍が降伏したのはその6日後でした。
追 記
歳三は合理主義者で、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げています。
陣中法度、局中法度等の厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者には容赦のない冷酷な人物とされていますが、箱館戦争にまで従った新選組隊士・中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、隊士に慕われていた」といいます。
この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったようです。
歳三は、もはや勝目の薄い戦局の中、自分の死に場所を見つけた悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げる為ともいわれています。
死の直前に小姓の市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じました。
歳三の愛刀は和泉守兼定(刃長2尺8寸)、大和守秀国、脇差は堀川国広(刃長1尺9寸5分)で、一般的な刀より長いものです。
(土方歳三資料館に現存する和泉守兼定は刃長2尺3寸1分で長さが異なるが、この兼定を誰がいつ日野に届けたのかは不明)
脇差の堀川国広は現在行方不明です。
墓所は
東京都日野市石田 石田寺(せきでんじ)
北海道函館市船見町 称名寺(慰霊碑)
福島県会津若松市東山町 天寧寺(慰霊木碑)
東京都北区滝野川 寿徳寺
東京都荒川区南千住 円通寺 ほか
箱館戦争の末期に、土方歳三が銃弾に倒れたという一本木関門跡に近い若松緑地公園に、土方歳三最期の地碑が建っています(函館市若松町)。
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