剣豪 沖田総司の短すぎる一生
2017/11/30
幕末の時代、思想なき殺りく集団といわれていましたが、幕府に忠臣し、侍の生き方を通した最後のさむらい集団だと思います。
そんな新選組の一番隊組長 沖田総司もそのひとりでした。
江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)で生まれたとされ、生年は1842年又は1844年の2つの説があるようです。
2人の姉がいて、父は総司の幼いころの1845年に亡くなります。
9歳頃、江戸市谷にかまえていた天然理心流の道場・試衛館の内弟子となり、その剣の才能は道場随一といわれ、頭角を現わしました。
のちの新選組結成となった近藤勇、土方歳三らとともに道場を支え、天然理心流の他いつ習得したのか、剣筋から北辰一刀流の免許皆伝を得ていたともいわれています。
京都へ上洛
1863年、兄とも慕う近藤、土方ら試衛館の仲間8人とともに(9人目の斎藤一は京都で加わる)浪士組結成に参加して上洛します。
近藤、土方らが率いる新選組の結成時には、沖田は最激務の一番隊組長となります。
一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる集団です。
芹沢鴨暗殺なども手がけ、1864年6月5日の池田屋事件にも近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んでいます。
池田屋事件の戦闘の最中、沖田は血を吐き、戦線離脱したといわれています。
肺結核による体調の悪化により、1867年以降は第一線で活躍することがなくなりました。
猛者の剣
隊内の撃剣師範としての沖田の稽古を受けたものによれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といっていて、稽古は相当厳しかったようです。
また、彼の剣は二番組組長永倉新八に云わせて「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とも語ったといわれています。
「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもあるように、三番組組長斎藤一と双璧をなす隊内随一剣客でした。
沖田の所有した刀として、「菊一文字則宗」「加州清光」「大和守安定」などありますが、信ぴょう性の高い史料は残っていません。
総司の死
鳥羽・伏見での敗戦後、江戸へ戻り千駄ヶ谷の植木屋にかくまわれていましたが、近藤勇が新政府軍に捕らえられ、斬首から2ヵ月後の1868年に近藤の死を知らぬまま、肺結核で生涯を閉じました。
生年がはっきりとは分からず、没年については22歳、24歳、27歳などあり不明です。
お墓は沖田家の菩提寺だった東京都港区の専称寺に納骨されています。
狂信的な沖田ファンからお寺では迷惑を被ってこられています。
昔から檀家以外立ち入り禁止だったようですが、近年、マナーを守っての墓参はできるようですね。
沖田の写真は一枚も残されていませんが、新選組に関わった人の証言では、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」とか「猫背で肩の張り上がった」など書かれたものが残っていて背の高い人物だったようです。
が、沖田家では「色の白い、小さい男だった」と伝わっていますが、美青年との書き残しはありません。
本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようで、屯所界わいの子供たちともよく遊んでやっていたといわれています。
引用元:Wikipedia
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